麻布綺譚93麻布と作家福田千鶴江について

作家ではないが、福田千鶴という学者が2010年に江の生涯という本を出している。

江ごうとは浅井三姉妹の3女で、徳川二代将軍徳川秀忠の正室となった人だ。

数年前にNHK大河ドラマとなり、上野樹里が江を演じた。

2016年の大河ドラマ真田丸では、秀忠は星野源、江は新妻聖子が演じた。

星野源の秀忠は、いつも父の家康のやることにイライラしていて面白かった。

今回は江と麻布の関係についてこの本を参考にしてご紹介したいと思う。

主に、江の葬式の件となる。

江が病死したのは1626年。54歳だった。

秀忠は江より6歳若く、1632年に死去している。

徳川実紀によると、江の葬儀は増上寺で、火葬は増上寺から約18キロの荼毘だび所で行われた。徳川実紀とは19世紀前半に編纂された江戸幕府の公式記録のこと。

御葬送の場所淺府野を以て定める。とある。

場所は特定できていない模様であるが、新編江戸史に我善坊谷、同辺上杉家中屋敷の後ろ、とあるので麻布台一丁目付近の模様だ。

飯倉の交叉点から六本木方面に歩いて行くと、右手に大きな麻布郵便局の建物が見えるが、我善坊谷はその裏手に当たる。

さらに、荼毘所跡は4つの寺に分与されたが、その寺は六本木交差点付近にある。

その一つの寺には灰塚というものが残っているので、この付近が荼毘所ではないかという意見もある。

徳川実紀に記載されている内容を見ると、かなり大がかりで派手な火葬みたいだ。

増上寺までの道には筵むしろを敷き、その上に白布を敷く。

18メートル毎に竜頭の旗が立ち、各藩の大名、武士が立つ。旗の間に蝋燭が灯された。

行列は、僧侶、幕府の要職者達、宮仕えの女たちなどが多数。大香炉と旗多数等、大規模である。

火屋は180メートル四方で、檜の垣根を建て、鉱物で赤く塗り、白絹を敷き詰める。

4つの門を作り、周りに40本の旗を立てる。

沈香(香木)を約60メートル積み上げて、一斉に火をつけた。香煙は1キロ以上を包んだそうだ。

香木は当時でも高価であったと思われる。高いものは伽羅きゃらと言う。

凄い量の香木だ。東南アジアから輸入したのだろうか?

この火葬は、徳川幕府の凄さを各藩の大名達に見せつけるのが狙いだったのだろうか?

江戸時代とは言えまだ前期であり、幕府の各藩への締め付けはこれから本格化したはずだ。

この我善坊は2018年から工事が始まる大規模な再開発が行われる。

地形も変わるかもしれない。高層ビルが立ち並ぶ。六本木から虎ノ門まで繋ごうという意図が見える。

荼毘所から増上寺までの道は18キロとのことで、直線距離では、我善坊は1キロ程度、六本木交差点は16キロ程度であろうか。

道順は現在ならば、飯倉交差点から東京タワーの下を抜けて増上寺の裏門から入り、墓所を過ぎて大殿へ行くのが近い。

しかし幕府の健栄を見せつけるための行進なので、神谷町から御成門を右折して、日比谷通り、三門をくぐり正面から増上寺に入ったのかもしれない。ならば我善坊からの距離は18キロになるかもしれない。

江の墓は増上寺にある。

遺骨は木棺に入れられ石棺に納められ、それを塔の身体部分とする大きな石造りの宝篋印塔ほうきょういんとうが建てられた。高さは515メートル。

秀忠の葬儀は地味だったそうだが、江に負けない立派なお墓を作らなくてはいけないと家光が考えたのか、現在のプリンスタワーの方に巨大な木造の宝塔が作られた。

江の大きな宝篋印塔はその後痛みが激しくなり、解体されて地中に埋められ、新たに石造りの宝塔が作られた。

一つ疑問なのは、なぜ火葬を麻布方面で行ったのかだ。

江戸城に近い所では駄目だったのだろうか?

駄目だとすると、田町や浜松町の方は、当時は直ぐ海の低地で好ましくない?

高台となると、増上寺の裏手、東京タワー、さらに麻布方面ということになる。

高台の方が良いとなると、火葬所は我善坊谷ではなくて、六本木の方かなとも思う。

もう一つ疑問なのは、なぜ火葬なのかということだ。

徳川歴代将軍や正室は最後の将軍徳川慶喜以外は土葬だった。

江は徳川菩提寺の増上寺で葬式を行った徳川家将軍と正室の最初の人となる。

しかし家康はその10年前に駿府久能山で死去しているが、遺言により神式で葬儀が行われ、土葬だった。その後日光東照宮に移転して神となったている。家康は江戸では葬式を行っていない。

現在、江や秀忠はじめ徳川歴代将軍6人とその正室などの墓は、増上寺の大殿の奥の徳川家霊廟と言われている狭い場所にある。

実は、江戸時代は現在の芝公園、東京タワー付近、東京プリンスホテルプリンスホテルタワー、まで全て増上寺だった。そこに大きな、お墓、礼拝所、門、諸大名からの多くの灯篭などが並んでいた。

明治維新後は管理がいい加減となり、荒れ果てた感じが強くなった。

永井荷風はそのような昔の栄華と今の侘しさがある増上寺が好きだと言っている。

戦争の空襲で秀忠の大きな木造の宝塔は焼失し、さらに荒れ果てた状態になった。

その後、芝公園の整理や西武鉄道グループへの土地の一部売却、ホテル建造にあたり、各お墓は掘り出されて、荼毘後、今の霊廟にまとめて安置された。

まあ、他人の墓や葬式の細かいことよりも、自分の事を考えなくてはいけないと思う。

麻布と江ということではもう一つある。

江が三代将軍家光を身ごもった時、医王山東福寺の薬師如来が夢に出てきてお告げが有った。その後、薬師堂を神田駿河台に建立。家光から十二神将像を貰う。

しかし、天和2年1682年の大火事で、東福寺は下谷から麻布薬園坂に移転。

東福寺は、文久2年1862年の地図によると、七仏薬師別当東福寺とあり、場所は、薬園坂の途中、下りてきて左側のイラン大使館旧館の内側から、絶江坂の延命院の裏側までを占めている。

明治9年1876年の地図までは寺名が確認できるが、その後、本尊十二神将像は目黒の安養寺へ移された。

本堂は隣の明稱寺四の橋交差点付近に売却。同寺の本堂となった。

明稱寺は現存する。この辺りも狭い道が色あるので、まち歩きには良い所である。